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構造と物語 -劇場版アイドルマスター輝きの向こう側へ 感想その2

内科部長(循環器)です。

前回の『感想その1 少女達の不安と後悔』に関しましては、望外のアクセスやコメント、ご感想をいただき、ありがとうございました。

ポエムと言うより学会発表
ポエムと言うよりカルテ

等のご指摘をいただきましたが、まったくもってその通りでございます。スマヌ……。

もし本物のポエムをご所望であれば、naさんのブロマガがオススメでありますのでご一読いただければと思います。

さて『劇場版アイドルマスター -輝きの向こう側へ』をさらに観続けておりまして、今日まで合計7回になっておりますが、10回超えないと廃人じゃないらしいのでダイジョーブだと思います。ホントダヨ。

前回の感想でこの映画の『構造』についてちょっと言及しましたが、今回はそのお話をちょっと掘り下げようと思います。

どうも職業柄か現象(症状)をみると、その裏にある構造(病気)を推察したくなるのが、私の性分でございまして、こんなこと考えたたりしなくってもこの映画を楽しむことには全く影響がありません。したがって、メンドクサイ話がお好きな方以外にはあまり推奨できるとは言い難いのであらかじめご理解いただければと思います。また、例によってネタバレを含みますのであらかじめご了承下さい。

また、感想その1のような心理分析はまったくございませんので、その手のお話を期待された方には真にもって申し訳ございません。これも私の性分でございますのでお許しいただければと思います。


映画を観てわれわれが何を消費するかと言えば、それはなによりも『物語』です。

それでは物語とはなにか?

それを理解する上で役立つのは『神話の構造』というお話です。

『神話の構造』とは、アメリカの社会学者ジョセフ・キャンベルが提唱した説で、古今東西ありとあらゆる神話は基本的に次のような3つのパートに別れる構造を示す、という話です。

1. 分離・旅立ち(セパレーション: separation)
2. 通過儀礼・試練 (イニシエーション: initiation)
3. 帰還 (リターン: return)

この説は、今では神話だけでなく物語の基本構造のひとつを示すと考えられており、スターウォーズシリーズをはじめとするハリウッド映画に多大な影響を与えたことで有名です。

スライド1

わが国でよくいわれる『起承転結』でいうと、『起』が分離・旅立ち、『承と転』が通過儀礼、『結』が帰還に該当します。

われわれの心に最も響く物語を最も効率よく作るにはこの構造を持たせるのが一番です。なぜならば、われわれの日常生活、朝起きて出勤(登校)して、仕事(勉強)に励んで、家に帰る。あるいは人生自体、生まれ・成長し、成人して社会生活を営み、老いて引退し死に至る、もこの構造を持つからです。

神話にとどまらず、成功する『物語』はこの構造を持つことはよく知られており、ハリウッド映画などは特にこの影響を強く受けています。

これをアイドルマスターに当てはめると

1. 分離・旅立ち: 少女がアイドルになることを目指し、アイドルとして活動を開始する
2. 通過儀礼・試練: 駆け出しのアイドルからトップアイドルになる
3. 帰還: トップアイドルとして成功し、芸能界で確固たるポジションを確保する

ということになると思います。

さて、この物語の構造をゲームとしてのアイドルマスターに当てはめて考えてみると下記のような構造を持つと思います。

スライド2

ゲームとしてのアイドルマスターには分離・旅立ちがありません。ゲーム開始の時点ですでにアイドル達は未熟ながらすでにアイドルとして存在しています。そしてゲーム自体が通過儀礼・試練を形成しますが、ゲーム終了時にもアイドルとしての最終的な帰還はなされません。これは繰り返しプレイするというゲーム自体の要求によるものであり、物語として帰還しないことによってその世界が完結しないようにする、ゲームという世界自体が内包する構造によるものです。したがってゲームとしてのアイドルマスターがこのような物語としては不完全な構造を持つことはある種の必然です。

さらには、ゲームとしてのアイドルマスターの物語をもう少し詳しく拡大してみると、その物語は古典的な物語とはいささか異なっていることに気付きます。

スライド3

ゲームとしてのアイドルマスターには一本道の固定された物語がありません。プレイヤー=プロデューサー(以下P)はキャラクターを背景に、エピソードを選択していくことでゲームが進行します。それは双方向性、分岐・選択性、再帰性を前提としたゲームの構造によります。

したがって、ゲームでは消費されるのは物語ではなくキャラクターやエピソードとなります。ここが映画とは根本的に異なるところです。

そして、Pがキャラクターやエピソードを消費していく結果として物語が形成されていきます。エピソードの選択にはPの意思が反映されるゆえに、その物語には主体としてのPの物語も織り込まれていきます。エピソードの選択による多様性と主体としてのPの存在により、ゲームとしてのアイドルマスターの物語はPの主観を表し、無数に存在することになります。ゲームとしてのアイドルマスターの物語は全て『俺の物語』なのです。遠くから俯瞰してみれば近似していますが、近寄れば近寄るほど差異が目に付くようになる、そういう個別性に基づく物語なのです。

それでは、そういう個別性の物語、俺の物語の世界をアニメや漫画、小説化するということは何を意味するのでしょうか。

それは個別性の物語の世界に一本道の物語を押しつけるということに他なりません。それは実際のところ危険なことです。一本道と物語と俺の物語には、大なり小なり必ず齟齬が生じるからです。したがって、愛されている作品、成功した作品であればあるほど、それは大きな賭となり、その作業は困難を極めることになるのです。

それゆえ、物語のメディアを変更する際には、しばしば意図的に物語を改編するということが行なわれます。キャラクターを足したり、世界観に変更を加えたりするのです。そうすることで上記のような齟齬に基づく反感や敵意を弱めることができます。ある種の平行世界感による衝突の回避です。そういう意味でゼノグラシアはある種正しいアニメ化の方法であったと言えるかもしれません。(結果は別として……)

また、逆に視聴者もメディアの変更された物語を平行世界の産物と解釈することで、俺の物語との齟齬を昇華しようとします。「アニメはしょせん平行世界だからね」という解釈方法です。

じゃあ、アニマスはどうだったかとえいば、改編は最小限に抑えられていたのではないかと感じました。ストレートにアイマス的世界を一本道の物語に置き換えようとしたと感じています。おそらくそれは、錦織監督をはじめとするアニマスの制作にスタッフがアイマスのことをよく知り、深く愛したゆえの所作と思います。

それでは、アニマスの物語はどうだったかというと、これも分離・旅立ちと帰還を欠き、通過儀礼・試練のみの構造となっていることに気付きます。第一話からすでにアイドル達は未熟ながらアイドルとしてすでにそこに存在しており、取材というメタ視点を導入することで、分離・旅立ちを欠くことを巧みに回避しています。また25話にいたってもアイドルはトップアイドルになるというゴールには達せず、明確な帰還はなされません。そして26話では再び小さなエピソードと劇中劇というメタ視点を導入して仮の終焉を迎えるのです。

アニマスの構造

そして、○○回を呼ばれるキャラクターを中心としたエピソードの集合体によって、ゲームと同様にキャラクター・エピソード消費的な消費に応えると同時に、それらの連鎖により『疑似物語』を形成することでシリーズの構造を保持しています。ただ、それでは単なるファンブック的アニメにとどまってしまうので、特に後半には春香、千早、美希を中心とする成長物語を絡めてきて、個人的にはとても巧妙な作りになっているなと感心するのですが、それでも「○○回に××の話をだすんじゃねえよ、このくそ脚本が」といったコメントやツイートをみかけるにつけ、やっぱ成功したゲーム=アイマスのアニメ化って大変だなあと思わざるを得ません。

とここまでが前置き。長かったねえ。お疲れ様でした、お休みなさい。じゃいけないですよね?w

さて、こうしたお話を踏まえて、劇場版アイドルマスターがどのような物語と構造を持っておるかと言えば、私の意見では以下のような物になります。

劇マスの構造

まずは、劇場版アイドルマスターも劇中劇というメタ視点から始まります。このことはこの作品が単体の映画としては物語の分離・旅立ちのパートを欠いていることを表しています。

しかしながら、よくよく物語を追っていくと、この作品では大きく分けて二つの物語が語られていることに気がつきます。ひとつは765アイドルの物語であり、もうひとつはミリオンライブ!の少女達の物語です。

765アイドルの物語は個人的にはやはりどう解釈しても765アイドル達の物語の帰還=『トップアイドルとして成功を収めプロデュースが不要になる話』のパートに位置するのはないかと考えます。しかしながら、作品の最後に至っても最終的な帰還はなされてはいません。そうなるだろうということが暗示されているだけです。したがって、この物語に関して言うなら、それはやはり『終わりの始まり』と言うべきなのだろうと思います。

ミリオンライブ!の少女達の物語に関しては、これは明らかに分離・旅立ちのパートを描いていると思われます。ただし、少女達がいかにしてアイドルを目指すようになったのかについては明らかにされておらず、これは『始まりの終わり』とでも言える物語なのではないかと推察されます。この物語が今後どこへ続いて行くのかは明らかではありませんが、おそらくこれで終わる物語ではないと推察しています。

この二つの物語は主として春香を仲介として相互に作用しあっていますが、基本的には独立しています。こうした単独の物語としては不完全かつ異端の構造ゆえ、この作品は物語として消費する時、非常にわかりにくいものになっていると感じました。わたし自身が初見時にいだいた違和感もこれが原因であったと思います。ひとつの連続の物語を追っていこうとすると途中で破綻してしまうのです。それゆえ、この作品を物語を消費するための映画として評価しようとするならば、それはおのずと低いものにならざるを得ないと思います。

こうした鑑賞法はやはり自分がオヤジだからかなとも思います。映画館で見せられるとそれは映画であって、物語を消費する物だというモードに入ってしまうからです。

しかしながら、アイドルマスターという大きな物語の中でこの作品を評価するならば、それはおのずと違ったもにになってくるでしょう。この映画は大きな物語と物語の橋渡しの部分であり、そうした意味ではこの作品はよく機能しているのではないかと考えるからです。

それは有り体に言えば赤ペンPが指摘しているように世代交代の物語です。というと刺激が強いので反発を招くかも知れませんが、やはり実態はそうとしか言えないと思います。ただし、それは幸せな成長の物語であり、約束の地への終着を意味するわけですから、それを忌避するのは、ある意味成長を拒否することと同義かもしれません。

上記のような物語、特に765アイドルの帰還に関しては、あまり明示的には語られません。おそらくは、こうした物語に対する拒否的な反応も予想されるための配慮ではないかと思われます。

また、ふたつの物語とも表情や視線、手の動きといった心理描写で語られる部分が大きいことが特徴です。おそらくは、後述するキャラクター・エピソード消費的な部分の邪魔をしないように配慮されたのではないかと思います。それゆえ、この物語の解釈にはかなりこの作品を細部まで観る必要があります。私自身が何回もこの作品を鑑賞している理由はここにあると自己分析しています。

と、ここまで長々と書いてきましたが、実際のところ劇場版アイドルマスターを観た人の中で、こうした物語追求的な鑑賞をしている人は少数ではないかと思います。

大多数の人は、ゲームやアニマスと同様のキャラクター・エピソード消費型の鑑賞をしていると思われます。この作品の感想を語るブログなどを拝見すると、良かったエピソードを列記するものが大半で、物語などに言及するものが少ないことがこれを証明してると思います。

ただし、それにはアイドルマスターあるいはアニマスという世界に関するある程度の予備知識が必要でしょう。というか、この作品をみるのにアイドルマスターを知らずに来るというのは、これかなり希な例じゃないかと思います。

こうしたモードでこの作品を消費する人はゲームと同じ感覚ですから、この作品を何回でも繰り返し消費することが可能
です。これもこの作品が何回も繰り返し観られることが多い理由の一つと考えます。

そういう意味ではエピソード・キャラクター消費のための装置としてこの作品は極めて良くできています。アイドルマスターを深く理解し愛している人達が制作したことが良く理解できます。

そのためのエピソードが前半を中心に配置されていて、後半に向かって物語が立ち上がって来るのもアニマスと同様の構造で、成功したパターンを上手に踏襲しているなと感じます。ただし、やはり121分という尺の問題があって、前半のエピソード・キャラクター消費的パートと後半の物語主体パートの移行がややスムーズでない印象もあって、これが『中盤ややだれる』という感想に繋がっているのではないかと思われます。

というわけで、この作品は映画としての物語性とアイドルマスターとしてのエピソード。キャラクター消費性を極めて高度かつ危ういバランスで両立させたものであると考えます。このあたりのバランス感覚に関してはファミエリさんが経済学専攻の立場からゲーム理論のパレート最適・ナッシュ均衡という見方から見事に解説しておられますのでご一読戴ければと思います。

この作品の本質は映画ではなく劇場版というネーミングが全てを物語っていると感じました。。すなわち、劇場という閉鎖空間で同時にアイドルマスターの世界を楽しむための装置です。そこで見る夢は観る人観る人で異なります。つまり同床異夢の世界です。しかしながら、極めて精巧に設計されたがゆえに、この作品は、どのモードで鑑賞しても最大限ポジティブな評価を与えることに成功したのではないでしょうか。この点で錦織監督をはじめとする制作の方々努力は賞賛に値すると思います。

さらに言うならば、もう少し時間をおいてもっとアイドルマスターの世界を俯瞰してみることが可能になった時、この作品の評価はさらに変わってくるのではないかと思います。そういう意味で、この作品をリアルタイムで観るチャンスが与えられたことに大いに感謝したいと思います。

もうあと10回くらいは観ないといけないね!(依存症)



というわけで、長々と書いたわりにはなんだかよくわからないものになってしまいましたが、これ以上熟成してもろくな物にはならない気がしてきましたので、ここらでこのお話は終わりにしたいと思います。ここまでお付き合いいただいた奇特なみなさまに感謝致します。

感想その3は765アイドルの物語について語る予定です。題して『アイドルは二度ベルの鳴らす』。きっとメンドクサイ話になると思います。いつアップできるかは見通しすら立っておりません。期待しないで待って下さいね。

『Pとその存在理由』もがんばっってアップしたいと思っていますのでお許し下さい。


ああ、SSAでのライブもあるし、リアルも忙しいし、もっと時間が欲しい……

Comment

No:65|解析,ありがとうございます
感想その1,赤ペン先生の感想も拝読させていただきました。老おっさんなもので,お二人が述べられているものに,非常にちかい想いと思いを抱いています。押井守に深読みすること,自分の物語と対照することを強いられた過去があるからでしょうか(笑)
私の鑑賞方法は,映画や小説の物語に没頭することなのですが,ムビマスは銀幕のこちら側のままで,淡々と見ていました。そのせいか,結構細かいところまで設置されたメッセージとか罠とかに気づいて,自己完結してしまっていましたが,内科部長様と赤ペン先生とむーく様のおかげで,それが補強されて揺るがないものになりました。ありがとうございました。反芻動物なのもので,二度目はかなり先になることと思います。

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